概要
城名:月山富田城(がっさんとだじょう)城郭構造:複郭式山城
築城者:平景清(伝承)、佐々木義清
天守閣構造:無し
所在地:所在地
歴史
- 平安末期(保元・平治頃)、平景清が出雲を領した際、この辺りに居を構えたという伝承あり。
- 文治元年(1185年)、佐々木義清が出雲守護職として月山富田城に入る。
- 正平19年(1364年)、山名時氏が出雲国守護となり、その後山名氏が代々城主となる。
- 元中8年(1391年)、山名満幸の時、城代の塩谷氏が京極高詮に敗れ、京極氏が守護となる。
- 明徳3年(1392年)、京極高詮が甥の尼子持久を守護代に任命し、持久が富田城へ入る。
- 尼子清定(持久の子)の時代、出雲、隠岐2ヶ国の租税を怠った咎で追放される。(尼子経久の代という説あり)
- 文明18年(1486年)、経久が富田城を奪還する。
- 天文12年(1543年)、大内・毛利連合軍の攻撃を受けるが、尼子国久が撃退する。
- 永禄9年(1566年)、尼子家の家督争いに介入した毛利氏に攻められ、落城。
- 永禄12年(1569年)、尼子氏家臣山中幸盛(鹿之助)が富田城奪還を企図し攻撃するが、落とせず。
- 慶長12年(1607年)、堀尾吉晴が出雲に入る。
- 慶長16年(1611年)、堀尾吉晴が松江城に移ったため富田城は廃城となる。
全体図
外観模型城郭全体図
千畳平(せんじょうなり)
尼子神社
太鼓壇(たいこだん)
山中鹿之助像
花ノ壇(はなのだん)
花ノ壇の名称は、花がたくさん植えられていたことに由来する。
敵の侵入の監視や城主が居住してた山中御殿へ隣接することから、
有力武将が在駐していたと思われる。
建物の痕跡を示す柱穴が南側からは発掘されているのに対して、
北側からはほとんど見つかっていないことから、
南側に武将が暮らす住居があり、北側は戦の際に兵士が待機する場所となっていたと考えられる。
現在2棟の建物が復元されている。
(現地案内板より)
復元された建物
建物内部
花ノ壇から山中御殿へ続く道
山中御殿(さんちゅうごてん)
合算の中腹に位置し、主要通路である菅谷口、塩谷口、大手口からの道はすべてこの山中御殿へ至る。
また城の中枢部にあたる三ノ丸、二ノ丸、本丸へ繋がる道もここから伸びており、
城郭全体の要となる曲輪である。
周囲を高さ約5mの石垣や、門・櫓・塀等で固めていた。
昭和49~57年度、平成5~8年度の2回の発掘調査で、これらは発見された。
(現地案内板より)
山中御殿全景(右側は復元石垣)
石垣
山中御殿周囲
七曲り
三ノ丸へ続く道、通称・七曲りの入り口親子観音
堀尾家お家騒動で処罰された堀尾河内守とその子掃部(かもん 又は勘解由(かげゆ))の墓とされる
七曲りの険しい山道
山吹井戸
三ノ丸
三ノ丸の石垣三ノ丸
二ノ丸
発掘調査により、建物や柵、塀の柱穴跡が発見された。
備前焼のかめが3つ見つかっており、
戦時の飲水や食料を貯蔵する建物だったと思われる。
三ノ丸から続く曲輪。長さ約20m、幅約15m
二ノ丸から安来方面を望む
二ノ丸と本丸を分ける堀切(深さ約10m)
本丸
別名を「甲の丸(つめのまる)」ともいう。月山の頂上にあり、 築城以前から存在すると伝わる、大国主命を祀った勝日高守神社が建てられている。
山中鹿之助(幸盛)の供養塔
勝日高守神社
麓からこの神社まで駆け上がってくる「幸盛マラソン」なる大会が開かれているらしく、 神社の裏手に表彰額が飾られている。
交通・アクセス
JR山陰本線安来駅よりバス約25分「市立病院前」下車徒歩10分。イエローバス米子-広瀬線
http://www.city.yasugi.shimane.jp/busyo/shiminseikatsu/shiminsankaku/yellow_bus/jikoku.html
※車で行く場合、麓の安来市立歴史資料館の前に駐車場があります。