概要
最上階が下階より大きい「唐造」の天守を持つ城。
城名:小倉城(こくらじょう)
城郭構造:梯郭式平山城
築城者:不明
天守閣構造:連結式望楼型4重5階(復興天守)
所在地:地図
歴史
- 文永年間(1264年~1274年)に緒方大膳亮帷重が居城したとするのが初見といわれる。
- 延慶年間(1308年~1310年)に緒方帷重の子・石見守帷尚が水原備中守定充に滅ぼされる。
- 元徳二年(1330年)、黒崎土佐守景経が居城するが、長野貞家に攻められ子の景之とともに戦死、長野貞家が城主となる。
- 貞家の子・教家が大内氏に滅ぼされ、大内氏の持城となり城代が置かれた。
- 嘉吉二年(1442年)に太宰少弐頼冬が攻略、文明年間(1469年~1486年)に菊池氏が居城、延徳二年(1490年)臼杵掃部助高直が菊池氏を滅ぼして入城、と度々城主が入れ替わる時期が続く。
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豊臣秀吉の家臣・森勝信が田川郡等6万石(8~10万石説あり)で、小倉城に入城する。
その後関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後森勝信は改易となる。 - 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後細川忠興が39万9千石でこの地に入り、小倉城を改築して入城する。
- 寛永9年(1632年)、細川氏が肥後国へ国替えとなり、代わって小笠原忠真が入る。
- 天保8年(1837年)、天守及び本丸御殿が焼失し、以降天守は再建されなかった。
- 慶応三年(1866年)、第二次長州征伐での小倉藩と長州藩の戦闘にあたり、小倉藩自ら城に火を放ち、支藩の香春へ撤退した。
全体図
門
天守閣
天守閣は天保八年(1837年)に失火によって焼失したため、現存していない。
現在の天守は昭和30年に文献を基に鉄筋コンクリート造で復興されたものだが、
入母屋破風や千鳥破風等が付け足されており、
元々層塔型だった当時の天守閣とは外観が変わっている。
上階が下階より広い唐造と呼ばれる構造になっており、これは元々の天守でも同様だった。
天守内部は資料館になっている。
周囲
交通・アクセス
【電車】
JR山陽新幹線・小倉駅より徒歩約15分
【車】
北九州都市高速・大手町ランプより約5分
勝山公園有料駐車場あり。
[参考資料]
日本城郭事典
現地案内板